近道は
なくてもよろし
枇杷の花
松本きみ枝
遠嶺
【土佐手縞/九名古屋帯】
―藍の縞―
制作/福永世紀子
経糸/山桃・藍
緯糸/五倍子 原綿/メキシコ・インド
“ひたむきに、唯、ひとすじに、木綿と向かい合う、ありったけの想いが、いま持てるすべての情熱が全神経と共に布に注ぎ込まれる” 福永世紀子さんが手掛ける「土佐手縞」を眺めているとそんな思いが脳裏を過る。 彩色に、その織りに、福永世紀子さんの”いま”持てる全てが注がれている。 こうした染織作品を見る度にいつも思う。 一体、染織家はどこまでその創作における情熱を、これほどまでに深いものとすることが出来るのだろうかと。 ひとつの「個」である筈の染織家の「想い」が、自然を引き寄せ、その生命や息吹までをも引き寄せ、その様々な大地の恵みをその「手」に引き寄せ、染織家自身の心の深みへと導き、新しい生命なる「命ある布」を生み出す、 それは深い想いに導かれた“未知なる染織”の創造という他はない。
こちらの作品の制作者である福永世紀子氏は、メキシコ・インド原産の「綿」に拘り、「手紡ぎ」に拘り、「草木染め」に拘り、古(いにしえ)の「織技法」に拘り、基本的な二色の糸だけを極めてこの綿織物“藍の縞”を織り上げた。 山桃と藍葉、五倍子によって染められたその色は、穏やかな瀬戸内の海の波紋を想わせるようでもあり、剣山の崇高さを見るようでもある。 生まれたばかりの藍の葉の生命は水色みを内包した柔らかな青となり、見るひとの目に優しく馴染み、つくり出されたその藍は清流のようでもあり、地の砂色は秋の気配が漂い始めた穏やかな陽の光りの様を想わせたり、或いは陽光を受けて輝く砂丘のようにも見える。
表面的にはとくに変哲のない平織の帯とした印象を受けるのかも知れない。 でも、眺めているとその印象は単なる柔らかな平織の帯ではないことに気付く。 それは制作者の心の深層に深く深く映し込まれた想いが直接には目に映らないニュアンスとなって映し出されるからではないかと思う。 その織りからは、通常淡い色からは感じられない深みのようなニュアンスさえ感じとる事が出来る。 染められた糸も然り。 単なる綿糸が使われた訳ではない。 産地に拘り、種に拘り、手紡ぎで紡がれた“メキシコ綿・インド綿”が使われている。 この作品は福永世紀子氏に手によって“新たなる生命を吹き込まれた織物”との形容が相応しい。 いつか誰かの手元に納まり、帯として使われる。 そしてその誰かの装いに少しの彩を注ぎ、さらに人生に少しの美しい彩を添えるべく…、まさにそんな帯だと思います。
追記… 福永世紀子氏の経歴に関しては 敢えて解説を加えるまでもないのかも知れません。 綴れ織りの重要無形文化財技術保持者/細見華岳氏に師事し、染織を学び、丹波布の継承者としても知られております。 現在は土佐にて「土佐い手縞」を制作されているのですが、こうした工藝染織に興味を向けられる方にとってはあまりにも知られた染織家ですからあえて私がかいつまんでお話するよりも詳しくご存じの方も多いかと思います。
誤解を恐れずに言えば、私は染織作品に対し、その制作者の“高名に”敬意を払うことはありません。つまり福永世紀子氏の作品であるから、という「目線」は一切持っていないのです。 あるいは持たないようにしているとした方がより正確かも知れません。 作品の出来映えに制作者が有名であるのか否かはまったく関係ないと思うからです。つまり、敢えてそうした先入観や偏った見識を持たないようにしています。 先入観を持つことで 作品をそのもの以上に錯覚したり、偏った見識から そのもの以下に捉えてしまうことはこうして工芸作品を紹介する仕事をする上で良いとは当然ながら思えないからなのです。
最後にひとつだけ付け加えさせて頂くならば…、そうした高名とされる染織家の“手”によって“創意を籠められた作品”であるならば、それは、染織工藝を愛好される方の期待を裏切る事はないこともまた確実な事実であるのです。
※地機、高機の結城紬、大島紬、久留米絣、黄八丈、など趣溢れる紬織物に適わせますと本当に素敵だと思います。
※長板中形、久留米絣に合わせてみました。
商品番号 |
TKOK-NGS-11 |
商品名 |
土佐手縞九寸名古屋帯/福永世紀子 作品/藍の縞 |
品質 |
綿100% |
価格 |
¥453,000(帯地のみ仕立て無し/税込) ¥464,500 (芯仕立て上げ税込) ※一級和裁士による手縫い。 ※お仕立てに要する日数はご注文確定後 約2週間~20日戴いております。 |
巾/ 長さ |
八寸~八寸一分程/ 九尺八寸程※お仕立て上がりの際のサイズ |
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